酒は呑んでも呑まれるな





 金曜、深夜。
 サイレンは飲み仲間のデュエルと孔雀と共に酒を飲みに行き、久々に羽目を外して飲み過ぎてしまった。そして帰りは孔雀におぶられて、帰路へとついた。
 体温が高いからか妙に暖かい孔雀の背中で、サイレンはうつらうつらと船を漕いでいた。頬に当たる風が冷たくて、温もりを求めて赤みがかった首元に顔を埋めた。すると、どうやら髭がちくちくとくすぐったい様子で、孔雀はときたま首を引っ込めたり伸ばしたり、を繰り返していた。
「……サイレン、大丈夫か?」
 首元に当たるサイレンの髭と、酒を飲んだ後で火照っている身体から漏れる熱い呼吸に、孔雀は背中にぞわぞわと駆け上る感覚を感じた。サイレンの身体が密着している所為か、どうしても落ち着かなかった。寧ろ自分が大丈夫か、と心の中で毒づいた。
 感じちゃいけない、興奮しちゃいけない、欲情しちゃいけない。理性をフル稼働していないと、このまま連れて帰って、襲ってしまうかもしれない。サイレンに嫌われるのだけは、絶対に嫌だ。
「はぁい、らぃじょーぶれぇす」
「……メチャクチャ心配なんだけど」
 呂律の回っていないサイレンの間延びした返答に、孔雀は溜息をついた。無事に家に送り届けるまで自分の理性も保つのかも、心配だった。
 そこからサイレンの自宅までの距離を、孔雀は足早に歩いた。たまに聞こえる鼻にかかったような声に、泣きそうになった。誘われてはいないのに、誘われてる気分になりそうだった。きっとデュエルに言ったら、笑われるかもしれないとも思った。
 サイレンの自宅前に着いた頃には、孔雀は微妙に前かがみになっていた。唯一の救いは、サイレンに気づかれていないことだった。
「……サイレン、ほら着いたよ」
「……ん。ありがとうございます……です。また誘ってくださぁい」
 幾分かサイレンも酔いは覚めたようで、しかし足元の覚束ない状態で孔雀に礼を言うと、よろよろと歩いていった。
(……心配だ)
 転んでしまうのではないかと、孔雀はヒヤヒヤしながらサイレンの後ろ姿を見守っていた。無事に玄関まで辿り着いたのを確認してから、孔雀は漸く帰路へとついた。



 孔雀に心配されているなどとは露とも思っていないであろうサイレンは、何事もなく玄関まで来ると、もそもそと上着のポケットから鍵を探した。
「……えぇと、あぁ、ありましたでーす」
 とろん、とした瞳を鍵穴へと向け、見つけた鍵を差し込もうとするが、中々上手くいかなかった。鍵穴の高さまで視線を下げて、漸く鍵穴へと鍵を差し込むことに成功した。
 ガチャ。
「ただい……」
 戸を開くと、そこには地獄の状況が広がっていた。
「くぉら! ざっけんなよ田舎っぺ野郎!」
「ぁんだとこの猫野郎がぁあっ!!」
「ブッ殺……!」
 既に日も変わった深夜にも関わらず、ギャーギャーと騒ぎながら取っ組み合いの喧嘩をしている、英利とニクスがいたのだ。
「え、あ……?」
 どうしたらいいものか、サイレンが酔った頭で考えていると、ニクスは漸くサイレンに気づいたのか、素早く走ってきた。
「おっ! サイレン! 遅かったな」
「おかえり、遅かったみたいだな……」
 英利も気づいたようで、挨拶代わりに軽く手を上げた。よく見ると、二人とも顔に赤い痣が出来ていた。殴り合いの喧嘩でもしたのだろうか。
「あ、はぁい、ただいま……です。ニクス、英利くん、顔……どうしました?」
「顔? 喧嘩だよ喧嘩! この田舎野郎が……」
「オイ、田舎野郎とは聞き捨てならねぇな!」
「ふ、二人とも……ケンカはヤメてください……っ!」
 ほんの些細な切っ掛けで、再び喧嘩でも始めそうな勢いの二人の間に、サイレンは慌てて割り込んだ。こうなっては、一応サイレンの家の居候の身である二人は喧嘩を続行することは出来なかった。
 ……と、普段ではこれで事は終了し、それぞれ勝手に就寝準備を始めるのだが。
「ううっ……二人ともひどすぎですっ!」
 普段の倍の量の酒を無理矢理に流し込み、その所為で普段よりも酔っていたサイレンがまるで、箍が外れたかのように、急にぐずりだした。
「私一人ばかりに炊事洗濯掃除に生活費の全部押しつけて! ケンカまでして! こんな理不尽な生活、もう嫌ですっ!」
「ど、どうしたんだよ、サイレン……」
 普段と様子の違うサイレンに、ニクスはたじろいだ。サイレンは普段何があっても、このように取り乱したりはしなかったからだ。
「俺は一応、少しは出してるが……いや、確かに少しだが……」
 英利はそう言うと、意味ありげにニクスを見やった。その視線に気がついたニクスは、今にも飛びかかりそうな剣幕で英利に詰め寄った。戦闘準備は万端、と言ったところか。
「オイ英利! まるで俺が出してねぇみてぇな言い方じゃねーか!」
「……実際出してねぇだろ。テメェはサイレンの腰巾着かっつの」
 一瞬にして、ニクスと英利の周囲の空気が凍った。
「な……っ、何だとこの野郎!」
「うっ……、うわぁあん!」
 二人の喧騒を横目に、サイレンはとうとう泣きだしてしまった。その泣き声に思わず、英利とニクスはサイレンの方を向いた。
(さっ……サイレンが泣いてる!?)
 二人の思考は一瞬、停止した。まさか自分達より年上で、気が長くていつも穏やかなサイレンが泣くとは、露とも思っていなかったのだ。
「おっ、オイ、どうしたんだっての!」
「すまない、騒がしかったならもう止めるから、泣くな……」
「うっ……そんなこと言って、アナタ達はどうせすぐにケンカするですっ!」
 確かに。思わず二人はお互いに顔を見合わせて、そう思った。
「こうなったら私、セムさんのところに行かせていただきますっ!」
「えっ、アンタがいないと少々……いや、かなりマズイんだが……!」
「ぐずっ……知りません! 私はもう、うんざりなんです!」
「んだよサイレン、お前は俺よりも刺野郎の方がイイってのか?」
 泣きながら玄関へと歩いていくサイレンの腕を押さえながら、ニクスは訊いた。
「当たり前です! セムさんは優しいです!」
「なっ……!?」
「こんな家、もう出ていきますっ!」
 腕を離してください、と喚くサイレンを自分の方に向かせると、ニクスは床に膝をついた。そして手と、額を押しつけた。
「……ごめんなさい、もうしません」
 所謂(いわゆる)、土下座というやつだった。
「ニクス?!」
 滅多にない光景に、サイレンは何度も瞬きを繰り返した。いつも偉そうで高慢な態度をとり、謝るということをしないニクスが、自分に土下座をしていたことが、信じられなかった。
 ニクスが珍しく謝っていることに感動したのか、サイレンの表情が優しく戻っていた。それを見て英利は、ニクスだけが美味しいところを持って行きそうだと思い、自分も床に手をつき、額を擦りつけた。
「……俺も悪かった。すまん、この通りだ」
「英利くんまで……! あの、解りましたから頭を上げてください!」
 二人の土下座が功を奏したのか、サイレンはしゃがみこむと二人の肩に手を置いた。
「二人がそこまで言うなら、許してあげます」
「マジか?!」
「本当か?!」
 飛び上がる二人。しかし笑顔で告げられた次の一言で、凍りつくことになった。
「次ケンカしたら私、セムさんに嫁ぎますから」
 もう二度と酔ったサイレンの前で喧嘩はしまいと、二人は堅く誓った。


サイレンが愛されてれば何でもいい。

2008/07/29